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2014年11月01日

福島⇒台湾訪問記(黒田節子)

9/25〜10/1にかけてNNAF(ノーニュークスアジアフォーラム)のツアーに参加し、台湾を訪問して来ました。


9/25(木)各国の参加者、台北に到着

26日(金)NNAF国際会議(国立台湾師範大学国際会議ホール)。歩道をプラカード広げながら会場移動。「蒋介石記念堂」自由広場で地べたに座って夜の歓迎会。心地よい風とライヴ。日本の官邸前金曜行動にヒントを得て、原発反対の集会が毎週ここでもたれている。

27日(土)午前、共同声明。午後、断食宣言の英雄・林義雄さんを訪問し「台湾社会運動歴史記録センター」「台湾民主化運動館」を見学。ここまで台北泊

28日(日)第二・第四原発見学&住民との座談会。台東市泊

29日(月)〜30日(火)LanYu(蘭嶼)島の核廃棄物貯蔵所見学、島内一周、交流会など。夕方出港

10/1(水)早朝、成田着。(往復:バニラ・エアライン)


■国際会議

香港、モンゴル、インド、韓国、インドネシア、フィリピン、トルコ、日本からの参加者がそれぞれに自国の状況を報告。ここではアジアの核問題についての深刻さが浮き彫りになった。核「先進国」が後発国をだまくらかしてその国土を汚染しているし、国内で作りにくくなった原発を輸出しようとする日本はとりわけ恥知らずな国である。その日本からの「フクシマ報告」は、アジアの参加者にいったいどのように聞こえたのだろうか。


■第4原発が凍結

台湾といえばこの4月、5万人の民衆が台北市のメインストリートに座り込んで第4原発がついに凍結されたこともあり、なぜそのような大規模な行動が可能だったか、大変興味を持っていたところだった。バスの中から見た駅前道路はとっくに平常に戻っていたが、あの広い交差点が原発反対の人々の群れであふれ、座り込み、ついに政権が凍結を宣言したかと想像するだけで感動。それは完全に‘非暴力直接行動’で、若い人たちが結構‘楽しげ’にぞくぞく集まってきたと。なるほどね。それにしても台湾の若者がなぜに元気なのか、それは以前からの疑問だった。

私なりに聞きかじった答の一つは、もともと脱原発派が多数なところに、大物芸能人や文化人がネットを意識した新しい感覚での行動をたくさん作っていったことなども効果的だったと。視覚に訴える総統府前での人文字ダイ・インなどはまるでスタントマンを大勢使った映画でも見ているようで、新鮮なインパクトのあるアクションだ。加えて、311フクシマ+ もともとの社会不満があったこと、これは言い換えれば代理制民主主義に対する不満でもあり、先人の歴史を少し振り返り学んでみる必要があるようだ。


■民主化闘争

 台湾の歴史はほとんど知らなかった。ん〜、かいつまんでいうと、日本の敗戦後、蒋介石が1947年から1987年までなんと40年間も戒厳令をひいていた国だということ。その間、民主化を求めて人々の苦闘の歴史があったのだ。この抑圧からの解放として昨今の運動が花開いた_と、すばらしい日本語の一人の長老が、素朴な私の質問に対して明瞭に答えてくれた。さにあらん。この春に断食宣言をし、人々を結集して第4原発を凍結に導いた林義雄さんは、若い頃、戒厳令下で獄中にいるときに母親と幼い娘さん二人を白色テロで虐殺されている方だった。直に本人とお会いし挨拶することができたが、まだまだ現役で頑張っておられる様子。彼やその友人たちは台湾民主化のリーダーであり、今の若い人にも大変尊敬されていて、日本でいうような世代間の分断はほとんど感じられなかった。先輩の話を良く聞く習慣や文化があるのかもしれないが、次世代へしっかりと受け継がれたものがあるのは間違いないようだった。


 旅の最中、香港で学生たちを中心とした大きな動きがあった。皆で宿のTVにかじりついて見ていた。その2日前にチョロッとフクシマ報告した台北の「自由広場」でも、香港に連帯する人々の群れにあふれていると興奮気味のアナウンサーは報じている。すごい。日本でも過去いろいろな闘いがあったハズだが、なぜ?どこが違うの?と疑問はさらに続く。

■霧社事件

また、台湾は、明治生まれの私の父親が若い頃暮らしていたことがあり、現地招集で「霧社事件」の加害者側の一兵卒として関わっていたこともあるところなのだ。「砲兵隊として高砂族を山の上から大砲を撃った。双眼鏡で見れば、クモの巣をつついたように逃げるのがよく分かった」というような話を私は生前に聞いていた。父はさすがに「酷いことをしたもんだ」と振りかえり、人々を悼む心情も確かにあったようだったが、その父の子として特別な気持ちを抱いたままの台湾訪問でもあったことを、やはりここに書かなくてはいけないだろう。


■LanYu(蘭嶼)島で

 台湾南端のずっと右側(東)にある島にオプショナルツアーで行った、その話。それはきれいな島だった。30年以上も前のこと、住民には「缶詰工場」といわれてできたものは、しかし、放射能廃棄物の黄色のドラム缶の貯蔵所だったのだ。「缶詰」違いダロッ!広大な貯蔵所、しかも海辺に。ドラム缶はメチャクチャな保管状況で人々がガンで亡くなったり、健康被害が出ている。海の汚染と津波も心配。住民が自ら測れる放射線検知器が必要だ。しかし、物をただ贈るだけではない支援(測り方、数字の持つ意味等々)が大切なこともこれまでの交流と経験から分かっている。


村の公民館のようなところでミーティングが持たれた。元村長さんが丁寧な品格ある挨拶の中にも 「昔、日本人学者・鳥居龍蔵が島の大切な物品を持って行ってしまった。返して欲しい」と発言。あの場でこれは余程のことである。今も昔も、日本人がアジアに対してやっていることは同じではないか。私たちはどう応えたらいいか、ハタと大きな宿題を与えられて来てしまった…。

LanYuで見た息を飲むように美しい海の迫力が忘れられない。童話に出てくるようなおもしろい形をしたたくさんの巨岩たち。ここが核で汚染されるなんて、、これは全ての命に対する、宇宙に対する人間の冒涜そのもの以外にない。

LanYuで誕生日を迎えたが、ずっとツアーに同行していたもう一人の節子さんも同じ月日に生まれたと。すごい偶然。島の小さな食堂で一行の皆さんに祝っていただいた。国内外のいろんな人と出会った旅でもあった。お世話になりました。漢字での筆談がかなり通じるので、往復の長い船中でもせっせと国際交流。フクシマに敏感に反応する台湾の若者たちでした。


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2014.10.10

黒田節子/「不要核電的福島女人們」

 (原発いらない福島の女たち)

posted by おんな100 at 20:14| 福島 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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